社会と個人 どう向きあうの

林住期 どのように暮らすのか。日々、自問自答する。

(255) 「五色の虹 満州建国大学卒業生たちの戦後」(三浦英之著) 視野が広がった

 

 

 

 

 

 

「五色の虹 満州建国大学卒業生たちの戦後」を読んだ。三浦英之の作品だからというのが手に取るきっかけだ。

 

 

  ブグログの作品紹介・あらすじ

日中戦争の最中、旧満州(現・中国東北部)に存在した最高学府「満州建国大学」。「五族協和」の実践をめざし若者たちが夢見たものとは。彼らが生き抜いた戦後とは。第13回開高健ノンフィクション賞受賞作。

 

 

 

 

民族協和、今、この言葉の持つ重み。

だれでも、人生の年月を重ねれば、自らの希望の方向とは全く異なる道を歩まされた経験をも持つ。
満州建国大学の学生もまた、あらゆる物事が即座に中断され、否定され、排除されるという境遇を直面している。正確には、ひと以上にだが。
この作品を読んで共感するのは、希望の道を閉ざされるという不条理の連続に誰しもが遭遇してきたからであろう。彼らほどではないけれど。しかも、80代の彼らは凛としている。そこに救われた感じ。
ジョージ・戸泉如二は4期生。日本人の父とロシア人の母を持つハーフ。敗戦後、波乱万丈の人生を送った。異質な建国大学生。学生は個性豊かで多様。

卒業生の戦後の人生に触れて、ロシアも含めたアジアの歴史を知った。ほんの一端だとおもうが。我の視野の狭さを痛感した。

満州国は傀儡の国、日本の恥ずべき侵略の歴史。それはそうではあるが、満州国の建国大学校に集った人たちの人生のありようは、皆の心にひびくものだと思う。
満州建国大学」について、初めてこの本で知った。


 ※  P  文庫本のページ

 

 

石原莞爾が1937年春頃、満州国の首都・新京に新設される最高学府の東京創設事務所を訪れ、次のような意見を述べたとされている。
①建国精神、民族協和を中心とすること
②日本の既成の大学の真似をしないこと
③各民族の学生が共に学び、食事をし、各民族語でケンカができるようにすること
④学生は満州国内だけでなく、広く中国本土、インド、東南アジアからも募集すること
⑤思想を学び、批判し、克服すべき研究素材として、各地の先覚者、民族革命家を招聘すること
当時、満州事変を主導した石原が脳裏に思い描いていたものは、目先の満州や中国との戦争などではなく、やがて到来するだろうアメリカとの「最終戦争」を勝ち抜けるだけの強固な東亜連盟の結成だった。ゆえに彼は満州国に新設される最高学府にこそ、その核となるべく人材育成の機能をなんとしても付与したいと考えていたのだ。

 

 

「五色の虹 満州建国大学卒業生たちの戦後」(文庫版) で心にひびいた部分。

 

一期生の百々和 山西省旧日本軍残留問題の当事者

P108
「建国大学は徹底した『教養主義』でね」と百々は学生に語りかけるような口調で私に言った。「在学時には私も『こんな知識が社会に役に立つもんか』といぶかしく思っていたが、実際に鉄砲玉が飛び交う戦場や大陸の冷たい監獄にぶち込まれていた時に、私の精神を何度も救ってくれたのは紛れもなく、あのとき大学で身につけた教養だった。


P110
百々は中国から帰還する直前の裁判において、弁明も釈明もしなかった。百々は語る。「私はそれを潔さと考えていたから。(中略)あの頃の日本人にとっては『潔さ』とは『美しさ』とそれほど変わらない意味だった。そして『美しく』あることは、『生きる』ことよりも、遥かに尊いことだった」

 

 

 

七期生の谷学謙へのインタビューがある筋からキャンセルに追い込まれて


P179
戦争や内戦を幾度も繰り返してきた中国政府はたぶん、「記録したものだけが記憶される」という言葉の真意をほかのどの国の政府よりも知り抜いている。記録されなければ記憶されない。その一方で、一度記録にさえ残してしまえば、後に「事実」としていかようにも使うことができる。共産党を脅かすものは些細なものでも許さない。そのきっかけはもちろん、建国大学で保証されていた「言論の自由」なのだ。

 

 

 

ダンバダルジャー記念公園(モンゴル・日本慰霊地 2001年建立)
モンゴル抑留者 12,318人 1,597人が死亡

  
 wikipedia から

 

 

 

韓国の首相となり、初の南北会談を実現した 新制三期生の姜英勲の言葉


P231

満州国は日本政府が提造した紛れもない傀儡国家でしたが、建国大学で学んだ学生たちは真剣にそこで五族協和の実現を目指そうとしていた。みんな若くて、本当に取っ組み合いながら真剣に議論をした。日本人学生たちはいかに日本が満州をリードして五族協和を成功させるのかについて熱くなっていたような気がします。中国人学生は、満州はもともと中国のものなのに、なぜ日本が中心となって満州国を作るのか、という批判が常に先に立っていました。その点、朝鮮人学生たちは最も純真な意味で、五族協和を目指していたと言えるのかもしれません。それでも、簡単に『和解できる』という点だけをとっても、若さはやはり素晴らしいものだ」

 

 

日本の近代史、現代史は ほとんど知らない。ましてや、アジア規模で、あるいは、世界規模での理解はほとんどできていないと痛感。山室信一教授が指摘されるとおりだと思う。都合のいいことしか見ない傾向もあるのでなおさらだ。

 

京都大学人文科学研究所教授の山室信一は言う。

p312
「私たちはもっと正しくかつての 『日本』の姿を知る必要があるのではないかということです。日本や日本人はどうしても自国の近代史を 『日本列島の近代史』として捉えがちです。1895年以降、日本は台湾を領有し、朝鮮を併合し、満州などを支配した。それらが一体となって構成されていたのが近代の日本の姿だったのに、日本人は戦後、日本列島だけの 『日本列島史』に執着するあまり、植民地に対する反省や総括をこれまで十分にしてこなかった。日本人の植民地認識は近代の日本認識におけるある種の忘れ物なんです。そして、そんな 『日本』という特殊な国の歴史のなかで、台湾朝鮮、満州という問題が極度に集約されていたのが建国大学という教育機関だった、というのが私の認識であり、位置づけでもあります」

 

 

 

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