「でんでら国」上と下 を読んだ。
ブクログの作品紹介・あらすじ
姥捨山のその奥に老人達の桃源郷があった
時は幕末、陸奥国の八戸藩と南部藩に挟まれた二万石の小さな国、外館藩西根通大平村が舞台。大平村には、60才になると全ての役割を解かれ、御山参りをする習わしがあった。御山参りと言えば聞こえはいいが、それは大平村へ戻れない片道の旅。食い扶持を減らす為の村の掟であったのだ。
ある日、代官所は、そんな大平村が、飢饉の年でも年貢をきちんと納めることを怪しく思う。姥捨山に老人を捨てているからだという噂もあるが、それでも老人を減らすだけで、重い年貢を納めることができるものかといぶかしむ。そこで代官所がたどり着いた答えは、「大平村は隠田を開墾しているのではないか」という疑惑だった。隠田を持っていることは、死罪にあたる時代、果たして真相やいかに・・・?代官と農民の知恵比べ。幕末老人痛快エンタテインメント!
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姨捨、隠田をめぐって、権力者と生活者が知恵比べをする。
幕末の陸奥の国の話。
でんでら国は、老人たちのユートピア。でんでら国を守るために、百姓、猟師、修験者、僧などが力を合わせ、戸館藩の武士に立ちに立ち向かう。
一気読み。面白い、エンターテイメントだ。
ユートピアを創り、運営、存続するための生活者の知恵と工夫がすごい。願望だけでない着実な実績への執着は見習うべきことだ。
「奇想」「気骨」「希望」の物語。( 解説 三田主水 )
心にひびいた文章。
特に、「野狗手」(狼使い)と「狼獲」のやり取りは考えさせられる。
(p 文庫版のページ)
「でんでら国」で住み始める 元<知恵者>百姓・善兵衛の 連れのものへの説明の言葉 上-p71
「周りに若いものがいると、その眩しさに己の辿る道を見失う。周りが爺婆だけだと、己の辿る道がよく見える。明日はわが身という言葉を身に染みて感じ取れるのだ」
善兵衛が別段廻役・平太郎に言い放った言葉 上-p291
「侍は百姓の言う言葉に聞く耳持たんということだ。百姓が意見をするのは生意気なこと。いや百姓ばかりでなく、商人も職人もみな、侍が決めた御定法に従っておればよい。侍はそういう考え方しかできぬ」
平太郎に「きりせんしょ」という菓子を与えた老人の言葉 下-p89
「まあよい。世の中は勤皇だ佐幕だとかまびすしいと聞いた。遠からず新しい世が訪れよう。その前後、侍は民百姓のことなど忘れて、新しい世での己の身の置き場所のことばかり考え奔走する。戦も起こるだろう。そんな下らないことに巻き込まれたくはない。侍と侍が戦うのだから、勝つのは侍。ならば、新しい世もまた侍が牛耳る。百姓が安心して暮らせる世など永劫に訪れぬ。だから大平村にはでんでら国が必要なんだ」
山に住む猟師の一団、「野狗手(ぬくて)」の狼使いの少女、鰍(かじか)と、人も獣も殺すことを何とも思わない、やり手の狼獲(おおかみとり)小五郎のやりとりに考えさせられました 下-p173
(鰍)
「狼が減れば、鹿、青鹿、狐狸の類が増える。それらが増えれば、今度は田畑を荒らすようになる」「狼獲は、狼を獲れば銭がもらえる。民百姓どもも同じだ。そのために狼は際限なく狩られ続けている。人が食うために獣を狩るのはよい。肉を腐らせるほどには獲らぬからだ。だが、農作物を守るという名目で獣を狩れば、狼狩りと同様に際限がなくなる。猟師ばかりでなく民百姓まで、銭のために獣を取り尽くす。政を司る者ならば、そのあたりの人の欲というものをよく考えよ。」(小五郎)
「生きるための殺生は許される。ならば、人が生きるために行っていることの結果、狼が我らに撃ち殺される事は、許されよう。狼が減ってほかの獣が増え、田畑を荒らすならば、その獣も撃てばよい。それも許されるはずだ。そして、獣の生き方が異なるのと同様に、人もまた獣と違う生き方をする。美味い物を食いたい。今より少しは楽な暮らしがしたい。そのために森が伐られ、山が削られるのだ。そして、いずれ狼はいなくなる。野狗手は消える。狼獲もまた姿を消す。それは人が生きていくために行ってきたことの結果だ。許されることであろう。それに、百姓は猟師のことを慮ることはない。職人は百姓のことを慮ることはない。商人、侍も同様だ。己に降りかかる不幸以外は、他人事なのだ。だから狼は滅びる。そして野狗手、狼獲も滅びる。お前がさっき申したように、狼が滅びたことが遠因で己に不幸が降りかかって、初めて人は慌てる。そういうものだ」