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林住期 どのように暮らすのか。日々、自問自答する。

政府が原発推進に転じる今、見てほしい 女川原発の建設反対史を伝える写真集出版 震災生き延びた貴重なデータ 

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2022年12月22日 12時00分

 


福島第一原発事故後、宮城県女川町で「福島を教訓に? 女川原発反対」のももひき旗を掲げる阿部宗悦さん(右)(写真集「原発のまち 50年のかお」から)

 

 東北電力女川原発宮城県女川町、石巻市)の建設阻止闘争を収めた写真集「原発のまち 50年のかお 女川から未来を考える」が出版された。岸田政権が原発推進にかじを切る中、編者で女川町議の阿部美紀子さん(70)は「半世紀前から『原発絶対反対』で闘ってきた地元住民の顔や思いに触れてほしい」と話す。(野呂法夫)

 女川の原発建設計画は1968年に公表され、漁業者らの反対闘争が始まった。阿部さんは75年に中央大学を出て帰郷し、廻船かいせん問屋を営む父宗悦そうえつさんがリーダーだった阻止闘争に参加。警察の機動隊が盾を振り上げ殴るのを見て憤り、カメラで撮影を始めた。

 


1976年9月、女川町で開かれた「女川原発絶対阻止三町連合決起大会」でデモ行進するかっぽう着姿の女性たち(写真集「原発のまち 50年のかお」から)

 県の「原発説明会」に賛成派が向かう夜行バスを阻む住民たち、漁船での海上デモ、東北電力への抗議要請…。闘争の最前線に立ち、「海はいのち」を守る思いと行動を記録した。
 だが次第に補償金などで切り崩され、77年に女川漁協は臨時総会で原発誘致決議案を可決。同時に決められた「漁業権放棄否決」だけが外で報告されて反対派が喜びに沸く中、阿部さんは「誘致決議してんだど、万歳するな」と叫びながら撮影した1枚もある。
 女川原発1号機は79年に着工され、84年に営業運転を始めた。原発反対運動が続く2008年、阿部さんは町職員から「反対闘争も女川の歴史の一部だから保存したい」と求められ、撮りためた写真のデータがCDに保存された。

 


阿部美紀子さん

 

 しかし、11年の東日本大震災で自宅や町役場は津波にのまれ、貴重な写真やCDも消失した。ところが仙台市の知人に渡したCDのデータが運良く別の仲間のパソコンに残されていたことが判明。同町出身で出版社「一葉いちよう社」(東京都北区)代表の和田悌二ていじさん(70)らとともに写真集の編さんを進めてきた。
 写真は約340枚収録され、闘争が激しかった70年代は阿部さんの撮影だ。漁業者らが当時の様子や東日本大震災などを語る証言も掲載している。
 阿部さんは東京電力福島第1原発事故後の4月26日、宗悦さんとがれきの自宅跡に立った。その日は旧ソ連チェルノブイリ原発事故から25年。流れ着いたモモヒキに「福島を教訓に? 女川原発反対」「全ての原発廃炉に!」と書いた旗を掲げた。宗悦さんは12年に86歳で亡くなり、父の遺志を継ぐ。


 岸田政権は福島の事故後初めて推進へと原発政策の転換を表明。しかも原発は脱炭素で地球温暖化対策に有効だと喧伝けんでんしている。
 阿部さんは「原発から出る大量の温排水は海水温より7度高く、温暖化を進める。廃炉や新増設では膨大なエネルギーが必要で、二酸化炭素を増やす。放射性廃棄物の処分や管理をどうするのか。反対闘争の原点を見て、脱原発への理解を深めてほしい」と話した。