社会と個人 どう向きあうの

林住期 どのように暮らすのか。日々、自問自答する。

(483) 4月から6月の映画鑑賞記録

 

 

 

 

 

 

4月から6月のおすすめ映画は、2作品。
一番は、「国宝」。

 

3月に生活の基本のところで支障がでて、3か月。
幸い、一区切りがついた。でも、この間、余裕がなく時間が取れず、映画館にも足を運ぶことができなかった。映画鑑賞も減った。

さて、久しぶりの映画館、「国宝」。
映画の楽しさを再認識した。

 

 

 


4月から6月の鑑賞記録

 

4月 1作品 (内、劇場鑑賞作品なし)

13日 密輸 1970(2024年) 70点

5月 6作品 (内、劇場鑑賞作品なし)

3日 室町無頼(2025年) 70点
25日 サンセット・サンライズ(2024年) 90点
   イコライザー THE FINAL(2023年) 80点
27日 新幹線爆破(2025年) 80点
28日 雪の花(2025年) 80点
31日 ヴューダ・ネグラ:黒蜘蛛の企み(2025年) 70点

6月 4作品 (内、劇場鑑賞1作品)

8日 赤羽骨子のボディーガード(2025年) 70点
11日 プロフェッショナル(2025年) 80点
14日 はたらく細胞(2024年) 80点
28日 国宝 95点

 

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「国宝」に触発されて書いた文章。ChatGPTとも対話した。


歌舞伎は誰のものか —— 血筋と伝統が支配する世界への反撃

見世物は、いつから神棚に上がったのか

かつて歌舞伎は、路上の埃と人々の笑いにまみれた「見世物」だった。出雲の阿国が鴨川河原で踊った時、そこにあったのは身分も格式もない、ただの衝動と表現の歓びだった。ところが、現代の歌舞伎はどうだ。漆塗りの桟敷席、名跡を継ぐ「御曹司」、襲名披露に群がるスポンサーとメディア。そこにかつての熱狂はなく、あるのは権威と儀礼、そして抑圧である。

歌舞伎は「伝統」という名の装置によって、民衆の手から切り離された。観客は「生活者」から「崇拝者」へと変わり、舞台は芸術の殿堂として神格化された。その過程で、歌舞伎は誰のものでもない「血筋の者たちの私有物」と化してしまったのである。

血筋こそが正統? それは芸か、それとも家業か

歌舞伎の名跡制度は、芸の継承と称して血縁を絶対視する。演技力よりも「誰の子か」が重視され、才能は血によって測られる。これは封建主義の焼き直しであり、芸術とは程遠い論理である。

たとえば、他の芸能の世界——映画、舞台、現代音楽——では、実力ある者が認められ、登りつめる自由がある。しかし歌舞伎では、いくら稽古を積んでも、血筋がなければ「主役」にはなれない。舞台に立てたとしても、それは名家の脇役を引き立てるための存在にすぎない。

歌舞伎と他の芸能ジャンルとの比較:

要素

歌舞伎

現代演劇・映画

登場の条件

血筋・名跡が重要

オーディション・実力

観客の立場

崇拝的・格式重視

共感的・自由

革新性

形式美重視、変化に慎重

多様な表現が可能

生活者は“部外者”でいいのか

歌舞伎は果たして、今もなお「民衆の芸能」と言えるのだろうか。確かにチケットを買えば誰でも観ることはできる。だが、その「観る」という行為に、真の参加や共鳴はあるのか。

言葉は古語、物語は封建社会、登場人物の行動原理も常識外れ。観客は物語の内に入り込むことなく、ただ「鑑賞者」として傍観するしかない。生活の延長に芸があるのではなく、芸は別世界に封じられ、隔離された。

変革の兆しは、血筋の外からやってくる

そんな歌舞伎界に一石を投じたのが、映画『国宝』のような作品である。血筋のない青年が、狂気と美を武器に歌舞伎界へと殴り込む。その姿は、まさに閉じた権威への挑戦であり、芸が本来持っていた「異端の力」の復活であった。

現実でも、劇団出身者や現代演劇の演出家が歌舞伎に新風を吹き込む事例が出始めている。とはいえ、それらはまだ“例外”であり、“許された変化”の域を出ない。だが、こうした動きは確実に既存の秩序にヒビを入れている。

歌舞伎を「再び見世物」へ

芸とは何か。誰のものか。それは一部の家系に継がれる“儀式”ではなく、すべての人が共鳴し、関われる“生きた表現”であるべきだ。歌舞伎が再び生きるには、「伝統の破壊」を恐れてはならない。むしろ伝統とは、壊され、作り直され、また壊されることによってこそ、生き続ける。

かつて阿国が街頭で踊ったように、歌舞伎を“生活者の手元”に取り戻さなければならない。そのために必要なのは、名跡や血筋ではなく、覚悟と欲望、そして狂気である。歌舞伎は今、再び“傾く(かぶく)”時を迎えている。


                             (以上)