社会と個人 どう向きあうの

林住期 どのように暮らすのか。日々、自問自答する。

(304) 大阪メトロ扇町駅を起点に街歩き 大塩平八郎らの武装蜂起に想いをはせた。

 

 

 

 

 

 

1年ぶりの街歩き。
昨年11月に鵞足炎になって、1か月ぐらいは痛みが取れず、その後も違和感が残り、最近やっと普通に戻った。

そこで、思い切って街歩き。

 

 


扇町公園から、蓮興寺(大塩家墓所)へ。

 


少し西側に成正寺。大塩平八郎親子の墓碑がある。かっての東寺町の一角。

187回忌の卒塔婆供養がされていた。(1837年3月27日に自爆死)

 

 

 

 

天満堀川跡

 

 

今宮戎、西宮戎と並ぶ三大戎の堀川戎神社。

 

 

  


かっての西寺町。寺町通り沿いに寺院が点在。南扇町野崎町、兎我野町が今の地名。

  
   光明寺            夕願寺

 

  
   蟠龍寺           冷雲院

 

  
   西福寺            龍渕寺

    
    圓通院            本傳寺


    
   法界寺            善覚寺 

 


ホテルなど歓楽街とのイメージの兎我野に、こんなにお寺があったとはビックリ。

初天神に寄り、その後靭公園まで歩き、  ” 「大塩平八郎終焉の地」碑 ” を訪れた。

 

  お初天神

 

 

  


大塩平八郎終焉の地 碑文

大塩平八郎中斎(一七九三~一八三七)は、江戸時代後期大坂町奉行所の与力で、陽明学者としても知られ、世を治める者の政治姿勢を問い、民業の師父と慕われた。
天保八年(一八三七)一月十九日飢館にあえぐ無辜の民を救い、政治腐敗の根源を断とうとして、門人の武士・農民等を率いて決起した。
乱後大塩平八郎・格之助父子は、この地に時接した油掛町の炭吉屋上部永衛道に潜伏したが、同年三月二十十日幕吏の包囲のうちに自焼して果てた。民衆に呼びかけた檄文は、密かに書き写され、全国にその挙を伝えた。大塩の行動は新しい時代の訪れを告げるものであり、その名は今もなお大阪市民に語り継がれている。
決起百六十年に当たり、全国の篤志を仰いでここに建碑する。
                 一九九七年九月
                          大塩事件研究会

 


ゆっくり、ゆっくり歩いて約2時間ぐらい。
日陰を選んで歩いたので、それほど暑くはなく気持ちがよかった。


 

 

日本大百科全書(ニッポニカ) から

大塩平八郎の乱
おおしおへいはちろうのらん

江戸後期、大坂で大塩平八郎らが救民のため挙兵した反乱。1828年(文政11)の九州大洪水より、断続的に天災による諸国異作が続き、36年(天保7)は未曽有(みぞう)の大飢饉(ききん)であった。この打ち続く凶作・飢饉により米価高騰し、大坂市中には飢餓による死者が続出する。

もと大坂町奉行与力(まちぶぎょうよりき)であり陽明学者であった大塩平八郎は、こうした市中の惨状を無視しえず、養子格之助(かくのすけ)を通じて、しばしば救済策を上申するも拒否された。しかも時の担当者、大坂東町奉行跡部山城守(あとべやましろのかみ)は適切な対策を出せないばかりか、翌年に予定されている新将軍宣下の儀式の費用のために江戸廻米(かいまい)の命令を受けると、市中の惨状を無視してそれに応じた。さらに市中の大豪商の賑恤(しんじゅつ)もこのときにはふるわなかった。

こうした大坂町奉行諸役人と特権豪商に対し、大塩平八郎は彼らを誅伐(ちゅうばつ)してその隠匿の米穀、金銭を窮民に分け与えるため、挙兵を決意する。あらかじめ自分の蔵書を売却して金にかえ、それを近隣の農民に分け与え、挙兵への参加を工作していた。

1837年2月19日、大塩は幕政批判の主旨の檄文(げきぶん)を飛ばし、「救民」の旗印を掲げて、私塾「洗心洞(せんしんどう)」に集う門弟二十数名とともに、自邸に火を放ち、豪商が軒を並べる船場(せんば)へと繰り出した。一党は300人ほどになっていたが、鎮圧に出動した幕府勢と小競り合い程度の市街戦を繰り返したのみで、小一日もちこたええず四散する。兵火は翌日の夜まで燃え続け大坂市中の5分の1を焼いた。

主謀者大塩父子は約40日後、大坂市中に潜伏しているところを探知され、自刃。この乱は、幕政の中枢の都市大坂で、しかも元与力であり著名な陽明学者であった人物が主謀したことによりその影響は大きかった。

幕政担当者はこれを契機に天保(てんぽう)の改革に取り組み、一般民衆のなかには「大塩残党」を名のる越後(えちご)(新潟県)柏崎(かしわざき)の生田万(いくたよろず)の乱、備後(びんご)(広島県)三原の一揆(いっき)、摂津(大阪府)能勢(のせ)の山田屋大助の騒動などの連鎖反応が起こった。

                                                                                  [宮城公子]

 

 にも聞きました


大塩平八郎の乱の処罰

大塩平八郎の乱に関与した者たちは厳しく処罰されました¹²。具体的には、天保9年(1838年)8月21日に罪状が宣告され、大塩平八郎を始めとする首謀者19人のうち生存していた1名を含めて、塩漬けにされた死骸が大阪南郊の飛田刑場で磔刑に処されました¹。

また、大塩平八郎の乱で処罰されたのは750名にもなり、重罪者とされたのは31人でした³。そのうち6名が自害し、他殺されたのが2名、1名は病気で、17名は1ヶ月の間に獄中で命を落としました³。

これらの事から、大塩平八郎の乱に関与した者たちに対する処罰は非常に厳しいものであったことがわかります。大塩平八郎自身も最終的には自爆して自決しました²。

このような厳しい処罰が行われた背景には、当時の幕府が反乱を厳しく取り締まることで、他の地域での反乱の発生を抑える意図があったと考えられます。大塩平八郎の乱は、幕府に大きな衝撃を与え、その後の一揆や打ちこわしの波及につながりました²。

また、この乱は幕府の支配力を強化しようとした天保の改革に繋がりました²。しかし、天保の改革は庶民だけでなく大名らの反感を買ったことから、2年で失敗に終わりました²。

大塩平八郎の乱から学べることは、「変化を起こすための行動とは何か」です¹。大塩平八郎は幕府に反乱を起こした人物として歴史に名を刻みましたが、その行動の根本は幕府の内部改革を願う気持ちでした¹。しかし、強行的な実力行使はかえって頑なな姿勢を生んでしまうことがあります¹。このように、歴史を学ぶことは、現代の問題解決にも役立つことがあります¹。

ソース: Bing との会話 2024/5/4
(1) 大塩平八郎 - Wikipedia. https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%A1%A9%E5%B9%B3%E5%85%AB%E9%83%8E.
(2) 大塩平八郎の乱 - Wikipedia. https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%A1%A9%E5%B9%B3%E5%85%AB%E9%83%8E%E3%81%AE%E4%B9%B1.
(3) 大塩平八郎 - 【日本の歴史巡り】. https://seo-sem.co.jp/contents/jphistoryrd/edo/osio.html.
(4) 大塩平八郎の乱 - Enpedia. https://enpedia.rxy.jp/wiki/%E5%A4%A7%E5%A1%A9%E5%B9%B3%E5%85%AB%E9%83%8E%E3%81%AE%E4%B9%B1.
(5) ja.wikipedia.org. https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%A1%A9%E5%B9%B3%E5%85%AB%E9%83%8E.

 

 

 

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